何かを始めると一時的にのめりこんでしまうことは、ぼく自身承知している。たとえば、誰か特定の小説家や学者の本を気に入ってしまうとのめり込んでしまう。一冊の本で満足できないと、同じ作家の本を次から次へと買ってしまうのである。ときには、同じ本を2冊、3冊と買ってしまうことは、一度や二度ではないのである。
積読しても、その本を読んだ記憶が思い起こすことができないと、本屋で、同じ本を買ってしまうのである。買った本でも読んでないという”記憶がない”と、初めて手に取ったとき、実に新鮮な気持ちになってしまうのである。そして、本棚に同じタイトルの本が並ぶことになる。
今までは、同じ本を買い求めたその本の冊数は三冊が最高である。いつ読むかについては未定である。
最近買った本のなかで、時々思い起こしていた本がある。それは、開高健の「知的経験のすすめ」(青春文庫)である。この本は、もともと1988年に青春出版社から単行本として出版されたものだ。それが、何処かへ行ってしまった。僕は、この本を紛失したのである。それで、開高健の「知的経験のすすめ」(青春文庫)を見つけたときは、嬉しかった。
買ったのは、ぼくがぐじくじしていたころである。この本には、ぼくにとっては、輝く一元半句があったのである。著者は、「手と足を使いなさい」と解く。草むしりなど何でもよい。頭の中でばかり考えていては、その凝視から逃れられないのである。孔子が言った言葉が、「知的経験のすすめ」に引用してある。、バクチでもいい。台所仕事でもいい。スポーツでもいい。畑仕事でもいい。手と足を思い出すことです。それを使うことです。」この言葉は、これを読んだ当時、僕に示唆を与えるにしては十分だったのです。
悩み大きい当時の僕には、有難い言葉であった。開高氏は、すでに故人となられたが、ミカン畑でNHKラジオを聴きながら、僕は、彼の死亡を知った。彼は、ノーベル文学賞を獲得するのではないかと僕は本気で思っていた。
僕らは、彼の新作を読むことはできないが、彼が出した、本を通じて僕は、これからも読み続けるだろう。
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