「思えば実現する」という命題は、実現しないのは思わないからだよ、もっと強く思えば願いは叶うよ、という圧力を感じさせる。しかし、思うことと実現することの間に因果関係は存在しない。これは、認識の問題である。つまり、思ったことが実現したら、ぼくたちは、それを「実現した」と認識するのである。
思ったことは、実現するかもしれないし、実現しないかもしれない。思わなければ、そもそも「実現する」などという言葉は登場しない。「思えば実現する」という命題は、思っても実現しないこともあるのだ、という領域を拾っていないのである。
「実現する」の主語は、「思う者」にとっては、目的語である。「思う」ぼくは、何かを実現させる、という構図である。実現させる責任は、主語である「ぼく」にある。しかし、「思えば実現する」という命題は、「思う」ことが何かを実現することを導くということを言っている。思ったことを実現させるための何らかの努力やその他の活動、他人の援助については何ら言及していないのである。
とはいえ、思いを実現しようするならば、何も行動しないことはありえない。「しようと」行動するからである。そのとき、思いを実現しようする者はゴールを定めるだろう。自己の未来の姿を思い描ことが、今の行動を導く。まだ、達成されていないゴールが今の行動を定める。
ぼくは、「思いは実現する」という命題は、文章を書くときに起こる、次のことと同様のものを引き出すのではないかと思う。これは、引用であるが、「例えば、文章を書くときに、「未来のある時点で、すでに仕事を終えている自分」という前未来的な幻想に同化しないと、今なすべき仕事」ができない。(「街場の文体論」内田樹著 文春文庫99ページ)
思いが現実化するとは、そういうことなのである。思うだけでは現実とはならない。思いによって、自らの行動を引出し、他人の援助を受け、思うことが現実のものとなるのである。思うだけでは、現実化は覚束ない。思うことをリアルに描き、実現に向けての細分化した目標を一段一段と着実に階段を登る過程を着実にこなすことが、近道なのである。何度も言うが、思うだけでは、ものごとは、実現しない。思うということは、こうありたいと思う自らの未来の姿を描き、それに向かって行動することなのである。
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